この強烈な存在感を放つシルヴァーナ・マンガーノとヘルムート・バーガーがランカスターの静かな生活を笑っちゃうほど掻き乱すのである。なにしろ全セット、ほぼすべて室内の撮影なので、ぼくらもまるで、その場にいるかのようにランカスター家の悲劇につきあうことになる。 
 最初にこの映画を観たときは、ぼくはマンガーノとバーガーがうざくてね。なんてワガママで、自己チューな連中なんだと。一種の年寄りいじめと若いぼくには見えたんですな。老ランカスター教授がかわいそうで、かわいそうで。でもね、今はもうまるで見方が変わっちゃった。 
 つまりね、ランカスターは彼らの訪問をこのうえなく「楽しんでいた」と見るのが正しいのではないか。ヴィスコンティはおそらくそう描いたんですよ。それがぼくは、我がこととして分かる! ランカスターほどではないが、こちらも東京の古い住宅街の一軒家でプチ「孤独の楽園」生活を送っているからです。好きな物(ぼくの場合は本)に囲まれた充分満足のいく生活......しかし人間欲が深い生き物ですね。いつも同じではイヤなのだ。どこかで刺激を欲しているのです。 
 むろん、連中が突然現れたときは、ランカスターはめんくらったでしょう。マンガーノは押しが強く、なんど断っても部屋を借りたいと言い張る。その上流階級独特のえぐさたるや、いやあ、けっこう笑えます。学窓生活しか経験のないランカスターは「人あたり」したと思いますよ。しかし、いやだ、困ったと言いながらランカスターは譲歩に譲歩を重ねる。これをランカスターの気の弱さのせいにしてはいけない。下心があるから、最後は譲るわけ。マンガーノの悪徳の美貌に抗えなかった。 

©️Minerva Pictures
©️Minerva Pictures

 バーガーに至っては、こりゃもう恋ですな。ランカスターが、バーガーに恋したんちゃう? と思われるフシがいくつもでてくるんですもの。ここも若いころのぼくには荷が重かった。「年寄りの男が若い男に恋ごころを抱く」なんて実体験はもちろん、文学や映画の世界でもあまり見聞してなかったものでね。いや、わかりませんよ、恋は極論かもしれない。しかし、物語の中盤、傍若無人なバーガーが、ランカスターの「家族の肖像」コレクションを見て「おお、これは知ってるよ、なかなかいいね」と、思いっきり生意気な口をきくシーンがでてくる。このシーンのランカスターの一挙手一投足にぼくは注目するわけです。〈う、こいつ、わかってくれたの?〉という目をするんですよ。ここはランカスターかわいかったな。ぼくもそうですが、自分が気にいっている、知る人ぞ知る的なマイナー作家や批評家を誰かが知っていたりすると、これはウレシイものでね。ちょっと話そうよ、コーヒーぐらいごちそうするよ、という気になるもんなんです。でね、バーガーは絵のほかにもクラシック音楽の趣味も悪くないことをランカスターに披歴する。ランカスターの弱点つきまくりですよ。そうなるとランカスターとしては、もはや、離れがたくなってしまう。バーガーが麻薬に手を染めていたり、70年代頻繁に起きていたテロに加担しているような影が見えたとしても、許してしまう。 
 一見哀れな被害者のように見えるランカスターですが、実は被害を受けるのを待っていた。加害してして~と手ぐすねをひいて待っていたんじゃないかと思えるのである。そのあたり、この作品の持つ心理劇的な要素は、最も上質な部類のサイコスリラー、サイコサスペンス的で、現代のぼくたちも無理なく入ってくるんですね。『山猫』や『ルードヴィヒ』的な重さも長さもないのでどうぞリラックスしてこのヴィスコンティ後期の最高傑作をご覧あれ。 

あ、いけない。もうひとつ書くのを忘れた。 

この記事の執筆者
TEXT :
林 信朗 服飾評論家
2017.6.21 更新
『MEN'S CLUB』『Gentry』『DORSO』など、数々のファッション誌の編集長を歴任し、フリーの服飾評論家に。ダンディズムを地で行くセンスと、博覧強記ぶりは業界でも随一。