クラシックのピアノを、ワインを楽しむように

 ワインが持つ、醸造酒ならでは柔らかな味と酔いは、食事のパートナーとして最適だ。その一方で、ワインそのものをじっくり味わうこともまた可能で、その際には、味覚や嗅覚などの繊細な領域を敢えて動員しないと、十分に理解することは難しい。ものによっては杯を重ねてようやくその価値がわかってくることもある。テロワールなどの知識もよきワインとの出合いには重要だ。

 これらのことは、クラシック音楽の楽しみ方にも通じると思う。著名な作曲家による、既知の曲が多いクラシック音楽は、BGM的に聞き流すことが出来る一方で、その音楽性を楽しむには、タッチやリズム、音色やアンサンブル感などをキャッチする繊細な感覚が求められる。そしてそれらを感得するために、同じ曲や演奏を聴き込むこともある。さらに、音楽の構造やスタイルに関する知識も、ある程度あったほうがより理解しやすい。

 そして双方の最大の共通点は、良質なものを理解し堪能するためには、送り手はもちろん、受け手側も、場合によっては人生を賭するような時間と情熱が必要だということだ。クラシック音楽以外の音楽、ジャズやポップス等においても、楽曲に関する知識などが求められる場合があるが、後者の場合は探究や理解よりもアーティスト(音楽の送り手)の表現欲求や創意のほうが、音楽的な達成に繋がりやすいように思う。つまり、クラシック音楽とは異なる才の発露なのだ。 

 
 

 以上、くどくど書いた内容は、ワインにも、クラシック音楽にも未だ疎い私自身に対する確認と戒めみたいなもので、双方に通じた達人には一笑に付される戯れ言かもしれない。これらの内容は、あるピアニストの公演情報を目にして、とっさに彼の演奏を思い起こし、心の裡に去来した事柄である。そのピアニスト、アンドラーシュ・シフは、クラシック音楽における「ワイン的楽しみ方」を、私に認識させてくれた存在だった。バッハそしてシューベルト(ECMの録音ではシフはモダンピアノ以前の楽器、フォルテピアノを弾いている)、シフの演奏は何かをしながら、またはスピーカーに正対しても、楽しめる音楽である。

 なかでも、つい先日ECMからボックスセットもリリースされた、ベートーヴェンのピアノソナタのチクルス(連続演奏)。一連の録音を収めたアルバム群は、私にとってベートーヴェンと冷静に向かい合える格好の機会を与えてくれたものだった。ドラマティックな展開とその底流にあるパッション、多くのベートーヴェンのピアノ演奏には、それら楽曲の性質に感応する演奏者の姿をつい見てしまう。それこそがベートーヴェン演奏の特徴なのかもしれないが、個人的にはそこに過剰さを感じ、つい及び腰になってしまうことが多かった。ところがシフの演奏からは、演奏者の昂りがあまり感じられない。そのピアノのサウンドは流麗というより、音の粒が際立っている感じだ。 

 
 

  その録音を室内で流していると、音の粒子が空間に広がるような印象を受ける。そのイメージは軽快ですらある。そして耳を凝らして聴くと、一音一音が珠のような質感を備えていて、それを追い味わうことが出来る。あたかも柱ひとつひとつに触れながら、建築物全体を確認するような感じで、聴き進めるうち楽曲のストラクチャーが立ち現れる。とかくロマンティックに流れがちなベートーヴェン演奏とは一線を画す構築的な演奏、そんな風にも感じる。

 そして幾度も繰り返し聴くうちに、楽曲を追うことから、ピアノのサウンドそのものを味わうように、耳が変化してくる。シフのピアノの真価は、ここで発揮されるように思う。個人的な見解だが、クラシック音楽のピアノ演奏を楽しむ際、いつもこの「ピアノが生み出すサウンドを聴く」という境地が重要であり、そこに導いてくれる演奏者を愛聴することが多い。なので、先に触れたクラシック音楽とワインの味わいとの相関関係と矛盾するかもしれないが、シフの演奏を楽しむにあたっては、クラシック音楽という枠をひとまず措いて、彼のピアノの音そのものに耳を傾けることが、もしかしたらその魅力を味わう近道といえるかもしれない。

 ちなみに2017年3月に来日するシフが弾くピアノは、オーストリアの老舗ベーゼンドルファーのピアノという。ECMのチクルスでも同社のピアノを演奏しているが、スタインウェイの艶、ヤマハの硬質な繊細さ、ファツィオリの豊かな色彩感とは異なる、クロッキーの線にも似た「太さ」」を「独特な滲みと暖かさ」を感じさせるそのピアノの音に、個人的に強く惹かれている。長年「ベーゼン弾き」としても知られているシフがどんなピアノサウンドを眼前に生み出すのか、今から楽しみだ。

この記事の執筆者
TEXT :
菅原幸裕 編集者
2017.7.5 更新
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。