紳士淑女のみなさま、2013年、巳の年が明けました。今年もどうぞよろしくお願いします。
ヘビは悠久・豊穣・再生のシンボル。低迷期を脱け出して再生を果たし、豊穣な実りが悠久にもたらされることを期待したいような(...むりやりでしたね)年の冒頭を飾ることばの主として、ふさわしいのは、やはりこの方をおいていないでしょう。

英国の英雄ウインストン・チャーチルは、並の人間の5人分以上の人生を生きているのではないかと思わせるほど濃く充実したキャリアを積み重ねています。しかも、文を書けばノーベル賞、絵を描けば売り物になるなど、才能をあらゆる分野で余すところなく発揮しているように見えます。でも、彼は、強運の持ち主である一方、失意や不遇の時を何度も経験しているのですね。お屋敷に生まれた貴族のお坊ちゃんである一方、コンプレックスを克服するための、あるいは成功を勝ち取るための、地道な努力を粘り強く続けている。その振り幅の大きな人生、たっぷりとして頑丈な男の器から発せられる力強いことばは、ひとつひとつが完璧な建築のよう。私の細胞にしみこんでいると思われることばだけを厳選しても、とうてい、一度で披露しきれるものでもないので、前編・後編に分けてご紹介しようと思います。

前編は、私個人にとってのチャーチルはどういう存在かというお話から。たとえば、苦しくて死にそうなとき、逃げたくとも逃げ場がないとき、判断に迷いすぎて泣きたいときなんかに、こうしてチャーチルのトランプを広げて、チャーチルに問いかけるのですね(笑)。

こういうとき、あなたならいったいどうするか? と。すると、伝説の名演説からの力強いフレーズがところどころに添えられた、53枚のカードのどれか一枚が、救いの光になってくれることがあります。苦味走った、どっしりと包み込んでくれそうな愛嬌のある童顔が、厳しく優しく、こう語りかけてくる。

あるときには、「決して、決して、決して屈してはいけない(Never, never, never give in.)」と。

またあるときには、「地獄を経験しているなら、そのまま突き進め(If you're going through hell, keep going.)」。これはそのまま、私の座右の銘になっています。

そして別の時には「成功とは、失敗に失敗を重ねてもなお情熱を失わないこと(Success consists of going from failure to failure without loss of enthusiasm.)」

励ましてくれるばかりではありません。「闘うときにニヤッと笑うやつが好きだな(I like the man who grins when he fights.)」などと、肩の力を抜いてくれたりもします。

 なんとかうまくいったかなと思えた暁にも、ご褒美のひとことが疲れを癒してくれます。「困難を克服したということは、チャンスを勝ち取ったということだ(Difficulties mastered are opprtunities won.)」

 とまあ、個人レベルだけで見ても、いかに私がチャーチルから多大な影響を受けているか、あらためてよくわかるのです。今日、私が「5年後はどうなっているかわからない」ような仕事を続けていけるのも、チャーチルのおかげ。彼は背中を押してくれるのです、楽観主義でいけ、と。「悲観主義者はあらゆるチャンスを困難と思うけれど、楽観主義者はあらゆる困難をチャンスと見る(A pessimist sees the difficulty in every opportunity, an optimist sees the opportunity in every difficulty.)」。難題がふりかかってきても、とりあえず、これは仕事力と人間力を鍛えるチャンスであろうと思い込むことにして逃げなかったのは、チャーチルのこのことばがあったからこそ。

  そんなふうに一個人の行動をあっさりと支配するほどのことばの力が、歴史の流れを視野におきながらパブリックに使われたとき、ぞくぞくするようなドラマティックな威力を発揮するわけですが、それは後編で。

この記事の執筆者
日本経済新聞、読売新聞ほか多媒体で連載記事を執筆。著書『紳士の名品50』(小学館)、『ダンディズムの系譜 男が憧れた男たち』(新潮選書)ほか多数。『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(吉川弘文館)6月26日発売。
公式サイト:中野香織オフィシャルサイト
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