What's "MEN'S Precious"

「理性で消せない恋の炎を、ただただあなたに知ってほしいのです」 オネーギン

 

紳士淑女のみなさま、こんにちは。

ヴァレンタインデーも近づいてまいりましたことですし、今日は、男と女の関係をめぐるお話をいたしましょう。

なんてたって、人類の永遠の課題にして最難題。あれほどの雄弁を誇ったチャーチルも言っております。

「私がなしとげた最高の偉業は、妻を私と結婚するよう説得できたことである(My most brilliant achievement was my ability to be able to persuade my wife to marry me.)」

さらに、前回少し触れた「カルペ・ディエム(Carpe Diem)」から、これをタイトルにした映画のなかの、あるセリフを思い出しました。ロビン・ウィリアムズ主演の「いまを生きる」(原題はDead Poets Society)という映画なんですが、詩を通して人生を教える教師ジョン・キーティングのセリフにこんなのがあります。

「ことばは、たった一つの目的のために発明されたんだよ。女性を口説くという目的のために(Language was invented for one reason, boys.  ---To woo women.)」

すてきな男性を育てるのは女の役割。ことばの力をもっと磨きなさいと説教したって、元来、怠惰な男(もちろん例外も多いです)が身を入れてお勉強するわけがない。女性たちが、男が発奮して口説きたくなるような女になること、プロポーズしたくなるような女になること、それが実は男に潜在力を発揮させるもっとも効果的な方法なんですね。あまり大きな声で言うと批判が殺到しそうですが。

では、男はどういう時に自発的にことばをつくそうとするのか? 女がどういう振る舞いをするときに男は饒舌になるのか? ということを考えさせられた、ちょっと切なくもシビアな、極端な一例をご紹介することにします。

 

「オネーギンの恋文」という映画があります。プーシキン原作の韻文小説「エフゲニー・オネーギン」の映画版で、レイフ・ファインズとリヴ・タイラーが主演。チャイコフスキーもこの原作からオペラを創りました。舞台は19世紀初頭のロシア、オネーギンは、ボー・ブランメルと同時代の「ダンディ」です。ブランメル時代の、ネッククロスぐるぐる巻きのボディコン乗馬服がよく似合う美男子。田舎の退屈を嫌う、スタイリッシュでクールで、「上から目線」がサマになる、シニカルな社交人士です。うぶでナイーブな田舎の令嬢、タチアナはそんなオネーギンに恋をします。

で、あふれる恋情をそのまま素直に相手に吐露するラブレターを書くのですね。このラブレターがまた美文なのですわ...(ため息)。一部だけ紹介しますと、こんな感じ。

「もしかけらでもあなたに哀れみの気持ちがあれば、私を見捨てて不幸にするようなことはなさらないでしょう。私はあなたを愛しています。あなたに言わないではいられなかった。だって黙っていると、あなたのものであるこの心が、きっと壊れてしまいますもの(Yet if you have one drop of pity, you'll not abandon me to my unhappy fate. I am in love with you and I must tell you this or my heart, my heart which belongs to you, will surely break)

 

ああ、なんてアホなタチアナ。哀れみとか見棄てるとか、すがるような表現はいったいなんだ! 女のプライドはどこへ行った! とカッカしそうですが、それ以前に、多少ともつらさを伴う恋愛経験のある紳士淑女であれば、恋愛初期において、意中の男に対して「素直に」心情を吐露するラブレターを送ることじたい、いかに男を萎えさせるか、痛いほどおわかりでしょう。幸せな恋をしたいと思うならば、相手の男には、好きであればあるほど、死んでも好きだと言ってはならないのに。男の「追いたい願望」を満たしてあげなくてはならないのに。ほっといても自分を追ってくる女、ましてやすがってくる女などに、男が恋心や執着を感じるはずもありません。

で、ただでさえクールなダンディは、案の定、慇懃にタチアナをフリます。ずたずたに傷つくタチアナ。その後、決闘事件があってオネーギンはしばらく社交界から離れます。これはタチアナにとって、せめてもの幸いとなりましたね。それ以後、まだ顔を合わせ続けなきゃいけないとしたら、私だったら死んでます。

数年後。オネーギンが戻り、ある舞踏会でタチアナに再会します。結婚して、洗練された貴婦人としてふるまうタチアナに、今度はオネーギンが興味を示します。でも、痛みを経験し、心情を素直に相手と分かち合うほど愚なことはないと学習した、つまりオトナの女になったタチアナは、いたってクールにあしらいます。オネーギンなど視野にも入らないというように。一方、オネーギンのほうは、無視されればされるほど、心がゆさぶられ、ヒートアップし、タチアナにのめりこんでいく。恋の苦しみで焦燥しきったオネーギンは、ついにタチアナに恋文を書くのです。これまた、かつてのタチアナが書いた以上の熱さで。極めつきのフレーズがこれ。

「私の中で燃えさかるこの恋の炎をただただ、あなたに知ってほしいのです。理性でこれを消し去ろうともしましたが、このまま燃えさかるまましておきましょう。もはや、私の感情に逆らうことはできません。私は、あなたの意のまま、なすがままになります( If you but knew the flames that burn in me, which I attempt to beat down with my reason, but let it be. I cannot struggle against my feelings anymore, I am entirely in your will.)」

あの冷酷なオネーギン、人を見下してまったく動じることのなかったシニカルなオネーギン、クールなナルシストだったオネーギンの、この変貌たるや! 恋愛は脳の構造を変えてしまう、と書いてる女性週刊誌がありましたが、一概に笑い飛ばすこともできません。ほんとうに恋をすると、ここまで人は変わるのです。というか、そこまで変わらなくては、それは恋とはいえないのかもしれません。フィクショナルな主人公ですが、ここに男の女の関係の普遍性があるからこそ、読み継がれ、オペラ化され、映画化されてきたのでしょう。

ラスト、「遅すぎたのよ(Because you are too late. Yes, you are too late Evgeny.)」。ナミダするタチアナ。凍てつくロシアの街を亡霊のように孤独にさまようオネーギン。ハートがひきちぎられそうな結末ではありますが、それゆえに、心の片隅に、ときにさまざまな教訓となって、いつまでも残り続けるのです。

つまり。強引に結論します。男がことばをつくそうと必死になり、人が変わったように饒舌になるのは、望みがあるかどうかわからない恋を追いかけているときです。追いかけたい女がいて、必死に口説こうとして、男は自発的にあらゆる努力をし、その結果、思わぬ力が出てきて成長したり、予期しなかった一面が出てきて別人になったりする。それがたとえうまくいかなくても、追いかけている過程にいる男はエネルギーにあふれ、一種の幸せを感じているはず。憔悴しきって見えたとしても。

女もまた、恋によって成長しますが、女の場合は、たとえ追いかけたい男がいても、心のままに追いかけると、早晩、うまくいかなくなりますここはぐっとこらえ、相手を追いかけさせる努力をしつづけなくてはならない。ほかならぬ、男のために。その意味で、女は男よりも、より強い精神修養を必要とします。

ということをつらつら考えているうちに、騎士道文化の中枢をなす宮廷愛について、ちょっと思うところがでてきました。これについてはまたいずれ。

紳士のみなさま。ヴァレンタインデーは女からのチョコやプレゼントを待っていてはいけません。日本特有のその慣習は、製菓会社の陰謀がもたらしたもの。愛を祝福しあう日であるという本来の起源にたちかえり、意中の女性に、あなたから、アプローチしてみましょう。

そして淑女のみなさま。男が追いかけ続けたくなるような、より魅力的な女になりましょう。それが結果として男のエネルギーレベルを上げ、社会に活力をもたらします。

ハッピー・ヴァレンタイン。


sonegin illustration.jpg

オネーギン、タチアナに求愛、の図。

追って追われて...未来永劫変、古今東西変わらぬ男女の光景。